【読書記録】みんな彗星をみていた(星野博美)
- 作者: 星野博美
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/10/06
- メディア: 単行本
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私の読書は、基本的には小説に限定される。
今起こっている世の中の大抵のことは、新聞読んでいればある程度の解説付きで読むことができるし、各紙毎の偏りはブログなどの情報で十分に補正できる。
ビジネス書も、若い頃に読んだD・カーネギーやスティーブン・R・コヴィーの焼き直しばかりだし、50も半ばになり先の見えた中年リーマンが読むほど価値のあるものとは思えない。
もちろん、仕事上必要な専門知識は、その都度専門書等に求めたりもするが、それは私の中では「読書」ではない。
そういう訳で、私が小説以外の本を読むのは、その時に本当に興味をもった(または気の向いた)ものだけに限定されるのだが、例外的に無条件に手を出すのが星野博美の書くノンフィクションだ。
その著作の全てを読んだわけではないが、「コンニャク屋漂流記」、「転がる香港に苔は生えない」、「島へ免許を取りに行く」など、いずれも荒削りながら骨太の素敵な作品だ。
そんな彼女が今回取り組んだのは、400年以上前の日本、主にスペインから来た宣教師と日本人切支丹たちの物語、テーマはズバリ「殉教」だ。
氏にしては珍しいこの「殉教」というネガティブなテーマを、どのように料理していくのか、興味をもって読み進めた。
序盤はリュート(主に中世からバロック期にかけてヨーロッパで用いられた古楽器群の総称。 因みに表紙の女性が弾いているのはリュートではなくビウエラ。)を巡るあれやこれやで、ソフトな導入となるが、如何せんあの時代の切支丹たちを書くにということは、必然的に陰湿なものとならざるをえず、コレジャナイ感はすごい。
しかしながら、終盤スペインに出張るあたりからは、いつものズシズシと逞しく前に進む星野ワールドが展開されるので、そこは安心してほしい。
ただ読後、どうしてもこの作品を手放しに支持できない違和感がどうしても残った。
それが何なのか2日ほど考えたのだが、恐らくそれは作者がある程度切支丹サイドに軸足を置いたため、少なからず「殉教」を美化してる点にあるのではないか.....と思うに至った。
その時の為政者や宗教の指導的立場の人間が、組織の都合とかで末端や中間層に対して、死を正当化したり美化する行為は、現代社会において決して認めてはならない行為だと思っている。
私の中では、キリスト教であれ、仏教であれ、神道であれ、宗教に殉じる死を美化した時点で、すべてそれは「カルト」である。
作者はそんなつもりはないのかもしれないが、ちょっと「殉教」をロマンチックに捉えすぎた嫌いがあるのはやや残念だ。
ただ、私にとってあまり馴染みのなかったこの切支丹の時代が、世界史の動きと連動してとても興味深い時代であることに気づかせてくれた本であり、結論から言ってやはり星野博美は面白い。